三食家付きの絶望は美味いか

日常に忙殺されてる。
時間を大切に過ごすために、無駄なことで痛む心の隙をこれ以上見せてはいけないし、作ってもだめだとおもう。

感情的になると人は途端に愚かしく見えることをいつだって忘れないでいたい。
喜怒哀楽にも限度ってものがあるでしょ。先天的に備わってるものでも。微調整はじぶんで行っていくべきでしょ。
苦しそうなひとは、大体じぶんの概ねのことを じぶんで掌握しきれてないし、コントロール出来ていない。
なのに他人のことは懐柔したがって、思い通りにならなければまた同じところでぐるぐる回り続けて悲観的になってる。じぶんのことさえ掌握してコントロール出来ない人間が他人を操れるわけがないのに、正直何様なのかとおもう。

わたしは、わたしを、たぶんもうほぼ完全にコントロール出来ているとおもう。
喜怒哀楽もひとと接するツールとして節度を持って使えているし、如何にも感情豊かのように振る舞って人懐こく見せることもさほど難しいことだとは感じなくなってきた。仕事の上ではわざとドジをやったり困った顔をして可愛がられる術や助けられる狡猾さや道化さえ覚えた。
何故なら変な固い意地を張って出来ないことを無理にやったりして周りに迷惑かけたり自分自身落ち込むより効率が良いから。

たまにくる酷い落ち込みは、大体仕事の疲れに所以してる。いまのわたしは働きすぎている。時間と飯を貪る獣みたいな生き方をしたくない、だからもう、もうひとつの小遣い稼ぎ程度のバイトは辞める。
そう告げてからもうひとつのバイト先で風当たりが冷たいが、わたしには関係無い。シフトに穴が空こうがそれはわたしが考えることではないし彼らが考えるべき仕事だ。
わたしはわたしの仕事を終日までこなすだけ。
いまのところだけど社会的にモラルから外れたこともしてない。する理由も無いし。バイトを飛んだりバックレたりもしてない、来月末までは続けますと言った。かなり良心的な辞め方だとおもう。
法的には2週間前には申告すれば何ら問題は無いわけだし。
それの何が問題視されなければいけないのかが分からないし、わたしはじぶんが間違ったことをしてるともおもってない。


もうひとつのバイトもそこそこに面白い。
端役だけど、ひとの生き死にを見送ることに携わることは興味深いし、勉強にもなる。
生きることも死ぬことも、わたしは経験しきっていないことだから。
じぶんが経験したことがないことには興味がある。でも経験したことがあることを深く掘り下げることも好き。一番嫌いなのは前にも後ろにも進まずにぐるぐる同じところで停滞していること。

自分を見失ってる時間なんてものは無い。
他人の影を追うから自分を見失うんだから。
ほんとに他人に興味が無い人間は最初からメリットデメリットが発生しない生産性の無い人間に執着しないし固執もしない。

自分の中に悲しみしか生まない人間に執着するのは馬鹿らしい。
わたしはもう愚か者になりたくない。愚か者に殺される愚か者になりたくない。

殺してでも自分が生きる。これがこの半年間で生み出したわたしの答え。
次もしも殺されたら、それはもう相手の問題じゃない。わたしの人生計画ミス。人間操作ミス。次殺されたら、絶望したら、わたしは死ぬ。
これ以上抉られる場所が無い心の何処を傷付けるのか興味深くもあるけど、そんなの「頚動脈切ったら人間ってどうなるの?」って聞く小学生みたいな愚問だ。

もうコントロールされたくない。コントロールする側に回る。この世を生き抜く方法はもうそれくらいしかない。
確固たる自分を忘れるのは愚か、破滅しか生まない。

呪うな、祈るな、縋るな、忘れるな、叫ぶな、泣くな、冷静に正しく殴れ、学べ、自立しろ、賢くなれ。
他人を黙殺して生き延びろ。
どうしても殺されるとおもったその時は、自ら命を絶つような潔さを忘れちゃいけない。

自分自身さえ扱えない人間が他人を扱えるなんて、夢にも思うなよ。
常に自分が歩いてきた道の中に自分以外の足跡が無かったことを忘れるな。

わたしはもうこれ以上痛みたくない。傷付きたくない。
愚かになっていく見苦しいわたしを見たくない。この先少しでも長く生きるためにも。